医療、看護、介護、療育の知識も総動員し、目前の利用者を評価し、対応を変化させて見て、そのときの本人からのサインを読み取る。ことの重要性をのべた。そして、びわこ学園 創始期の療育の考え方 「ゆさぶり 引き出し、確かめ合う。」という考えかたの、新しさをのべた。「ゆさぶり」 は その人の潜在的な力を引き出す、その人をとりまく環境だ。それはケアであったり、移動装置などのハードであったり、音楽や声かけ、空気や光であったりする。その中で、新たな関係性を組み替え、その中で生まれてきた、わずかな能動的反応を耳をすまし、めをこらし、受けとめる。そして、その確かな、応答を、呼吸を、みんなで確かめ合うのである。そこに、相互性というコミュニケーションが生まれる。
そんな、繰り返しの中で、コミュニケーションの中で、相手の存在が自分の中に、確かに感じられてくる。コミュニケーションは新たに、「感じ合う」 という段階に達する。
ともに、長い時間をすごしている、家族の方は、重症心身障害の方のわずかな反応にもきづく。表情の変化に、躍動する気持ちを、そしてある時は、何か、異変を感じ取るのである。20年以上、病棟に勤務している看護師は、利用者の気持ちをすばやく察して声をかける。また、利用者の気持ちを、自分の声で表現する。まるで、一人で二人の役を演じるように、対話をする。経管栄養を開始する時、「おなか すいたね。ごはんですよ。はい、いただいてくださいね。」と自然に声をかける。相手の存在が、自然にその看護師の中に感じられているためであろう。
1人の、重症心身障害の方の前に立ってみる。手にふれてみる。ぬくもりがあり、血液が流れている。心臓は鼓動をうっている。反応が少ないが、なにかつたわるものがある。同じ血液が流れている。同じ酸素をすっている、意味のある言葉ののやり取りをしなくても、なにか感じ合うものがある。感じ合うコミュニケーションが確かに存在することを、感じる一瞬である。
感じ合う、コミュニケーションは時に、重症心身障害の方同士で生まれることもある。進行性の脳障害である姉妹が、静かに、同じ部屋で、ひとときを過ごす。医療的には、わかりあえないのではないかと思えるほど、脳障害が進行しているが、何かを感じている表情をうかべる。ある利用者は、ベッドルームの重症心身障害の方が、外泊でいなくなると、元気をなくす。帰ってくると笑顔がもどる、感じ合うこと、他者の世界が自分の中に感じられること、それは、言葉でのコミュニケーション以上にわかりあえる瞬間かもしれない。
「感じ合うこころを、発見する。」コミュニケーションの自然な、姿である。この段階に到達するには、長い時間と苦楽をともにする経験の共有が必要と思われる。