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2008年 4月 30日 18.その11 利用者をとりまく家族と地域(1) 支援の中で、ともに育つ家族

1. 利用者をとりまく家族と地域(1) 支援の中で、ともに育つ家族


 障害のある子どもを持った家族は、最初からこどもを受けいれているのだろうか?

 20年以上も前になるが、研修医のころ、ある病院で、重症仮死の赤ちゃんが病院の新生児治療室に運び込まれてきた。 無痛分娩で重症仮死の状態であった。 重度の脳障害が予測され、呼吸管理が必要だった。しばらくして、呼吸器がはずせたが、赤ちゃんは、よびかけても反応がない。脳障害のための全身はそりくり返り、表情は、苦しそうであった。呼吸はあえぎあえぎで、哺乳は不可能で、点滴と鼻からのチューブで栄養を補給した。両親に、脳障害の可能性と、重度の障害が残るだろうという話をした。両親は、「この子の治療を中止してほしい。こんな状態でいきることがしあわせには思わない」、とおっしゃった。

 生きることが苦痛のように思えたが、治療をやめるわけにはいかなかった。両親の意思に反するようではあったが、治療を続けた。

 おかあさんは、「何でうちの子が、障害をもったのか?」納得がいかないままに、時々母乳を持ってこられるようになった。それでもしばらくすると、NICUをのぞきながら、「あら、きょうは少し楽そうね。今日は、緊張つよいわね」と感想を述べられるようになった。医師やナースは一生懸命、赤ちゃんの状態を伝えた。状態は、次第に安定し、時折笑顔がみられた。四肢に麻痺があり、働きかけへの反応は乏しかったが、確かに笑っていた。「笑っている 」とおかあさんの表情にも初めて笑顔をみた。

 そして、1年たった。子どもは、経管栄養で、時折、痰がからみ、吸引が必要だった。まだ、両親は、子育てや医療ケアに自信がもてないようであった。小児科病棟のナースや医師は、小児科部長に、家族の受け入れが可能になるまで、病棟のナースステーションの隣の哺乳室で、この障害のある児をみていきたいと願い出た。そしてそれは許可され、ナースと医師とでの、育児がはじまった。次第に、家族による面会の回数が増えていった。

 ある日、おかあさんが、「最近、この子が、うちの宝のように思えてきた。この子がいると、この子の兄も他の家族も優しくなれる。この子の存在は、家族が間違った方向にいかない、支えのような気がするのです。この子は家族の中心です」、とおっしゃるように変化してこられた。家族の思いが、当初の「治療しないでいい、生きていなくていい、存在」から、家族にとって、かけがいのない、愛しい、「いのちとしての存在」に、変化していかれたようであった。

    

1年を経過し、2歳になって家族からは、おうちへつれて帰りたいと申し出があった。そして、在宅生活がはじまった。3歳の誕生日のお祝いに、ご自宅に、スタッフと一緒に、訪問してみた。ご家族がその子を中心に、生活されていることがよくわかった。病棟で支えた、医師、看護師と両親とのみんなで、誕生日のケーキのろうそくに火をつけて、ハッピイバースデーの歌を歌った。

     

 生きていてもつらいだけ と思われていた当初のご家族の様子、そして3歳の時にみた、「この子が家の中心です。」とおっしゃったご家族の姿。大きな変化があった。この変化の中に、長い時間の経過と、障害のあるこどもを支える、病院のスタッフのまなざしが、必要だったように思う。障害の重いお子さんが、最初から家族の中に祝福されて生まれてくることは難しい。時間と懸命に支えようとする支援者の存在が必要だった。そのことが両親の心の中にある本来の子どもを愛する気持ちを引き出していった。後に、びわこ学園に勤務してから、このご家族がおっしゃっていた、「この子がうちの中心です。」、といった言葉は、びわこ学園の創始者である糸賀一雄先生の、この子らを世の光に、という言葉に通じるものがあるのではないかと気がついた。当時のご家族が、自然にこの福祉の理念のことばを口にされていたことに、いまさらながら感嘆するのである。

     

 今、びわこ学園では、こうした、障害にであった当初のご家族の悩みや葛藤が、長い時間と支えの中で、やさしい落ち着いたまなざしに変わってきておられるご様子がご家族の話やケースワーカーの記録から、伺えることが多い。しかし当初は、心中も考えたご家族もあったと聞いている。

    

 池で幼児期にでおぼれて、重度の障害のあるお子さんのお母さんは、次のように語ってくれた。「救急病院の当時は、重度の障害が残ることが、わかったとき、絶望だと思った。しかし、今は、障害があっても、健康が安定し、学校にもいけて、本人から笑顔も見えるようになった。いろいろ子どもを支えようとしてくれる人にも出会えた。子どもが障害があることは、決して絶望ではなく、ともに歩む私の人生も、かえって深い生き方ができているような気がします。」とおっしゃった。

 このような言葉を聞くと、どんな障害が重くても、喜びが感じられる人生を応援していく、我々の仕事の重大さをあらためて痛切に感じるのである。

   

   (個人が特定されないように、年齢や状況を変えて表現しています。)