重症心身障害の支援の専門性について考えてみたい。大学院の基礎看護学科の学生が我々の施設で、看護師が、利用者の何をてがかりに、意図や状態を判断し、看護ケアをしているかの研究をし、修士論文を作成した。その中で、看護師と利用者のコミュニケーションで、もっとも中核となる専門性は、重症児施設で働いている看護師は、利用者が感じていて、わかっていてそれを何らかのサインで表現している、という確信をもっていることと結論づけた。わかっている確信、これが 看護の専門性のもっとも基礎だというように彼女は、考察した。
脳障害があって、CT上脳の実質がほんとにわずかしか残っていない利用者と看護師の応答を1年間観察し続けた上での結論である。この研究の補助として、我々も聴覚誘発電位と、視覚誘発電位を測定し、知覚機能を確かめてみた。追視がなく視覚機能は、ほとんどないと思われていたが、光は感じていることがわかった。聴覚誘発電位では、音への反応があることがわかった。こんな検査をするまでもなく、ご家族や病棟の職員は、利用者が、わかっている存在として、とらえていたのである。CTのわずかに残された脳実質をみると、どこに周囲の状況や働きかけを認知できる力があるのかと思ってしまう。でも職員やおかあさんは、長いやりとりの中で、利用者が表現しているわずかなサインに、意味を感じてきた。応答の枠組みが、支援者の中に形成されていること、これこそが支援の専門性の重要な中核と考えられる。
例をあげてみてみよう。気管切開をしている超重症の方がいる。モニターは酸素飽和度の低下を示している。1番目の看護師は、酸素の低下を察知し、酸素を投与しようとした。2番目の看護師は、ごろごろ、という痰の貯留音を察知し、「まあ、痰がたまっていたのね。しんどかったでしょう」、と話しかけながら、痰を吸引した。3番目の看護師は、痰の貯留音と同時に、利用者のウワーンという発声と、訴えかけるような視線を察知する。痰の貯留の原因が、頸部と体幹の角度の崩れであることを発見する、全体に緊張があり、姿勢がややそりかえりぎみで、いつもの姿勢がくずれている。発声と訴えかけるような視線で、このことを訴えていたのだ。看護師は、「まあ、しんどかったわね」といいながら、頸の向きを調整し、クッションを入れ替え、姿勢を整えた。それから吸引すると、利用者はにっこりと笑顔を返した。姿勢の崩れから緊張が亢進し、唾液の誤嚥と胃食道逆流が発生し、微少誤嚥が続いたのだ。それが痰の貯留の原因だった。3番目の看護師は、重症心身障害の病態生理を知っており、かつ、利用者のわずかな訴えのサインを見逃さなかった。この両者の結びつきこそが、支援の専門性なのである。
1番目の看護師のケアでは、状態が改善しない。2番目の看護師のケアでは、状態は改善するものの、すぐに同じ状況が再発してしまう。そして3番目の看護師のケアでは、長い間、落ち着いた状態が保たれる。また3番目の看護師は、どんないい姿勢でも30分以上たつと利用者が、不快に感じる場合があることを予測し、時々利用者の表情や緊張をうかがう。少しくずれそうな予感があるときは、かるく手をいれる。
一つの勤務時間が終わるとき、3番目の看護師が、結果的には、一番少ないタッチの量でいい状態に保つことができたのだ。相互に負担がないケアである。
看護や支援の専門性は、知識と経験が結びつくことにある。利用者がわかっていて、それを何らかのサインで表現しているという確信、これこそが、重症心身障害支援の専門性である。多くのびわこ学園の職員は、この道をそれぞれかかる時間がちがっても、歩んでくれている。ここに看護や介護の原点があり、重症心身障害支援の経験に裏打ちされた専門性がどの分野でも通用していける、普遍的な価値にたかめられるプロセスがあると考える。